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われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか -心とホルモンの密接な関係— Part2

2021.06.21

われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか
心とホルモンの密接な関係— Part2

怒りの意味
怒りという感情は不快なものであるが、一方でエネルギーを生むものである。2014年のノーベル物理学賞を受賞した中村修二氏は、自分のエネルギーは怒りであったと記者会見で述べ注目された。怒りのエネルギーは何らかの行動につながり、それは現状を変化させるきっかけになり得るものである。怒りを生じるような状況に陥ったときに行動に結びつけるエネルギーが生じるが、それは生物として短期的に生き延びるために遺伝的にプログラムされている反応を引き起こしていると考えられる。しかしながら、そのような本能に基づく適応的反応は多くの場合、動物的かつ短期的視点に基づいた反応であり、人間としての長期的展望や品格、理性とはかならずしも一致しない場合も多い。逆に中村氏のように怒りをモチベーションに変えて偉業を達成できるのは素晴らしいことである。わたし自身も環境に対する怒りを勉強へのモチベーションにしていた時期もある。ただこのやり方は、必ずしも幸福に結びつくかは微妙である。

 怒りのような心の動きは扁桃体などの脳だけではなく、自律神経系、そして内分泌系すなわちホルモンが深く関わっている。怒りや恐怖の感情が沸き上がったときには、交感神経系の興奮とともにFight and flight hormoneであるアドレナリンが副腎から分泌される。アドレナリンは心拍数を増加し、発汗、瞳孔の散大、筋肉の血流を増やし全身を戦闘態勢にするホルモンである。いわゆる火事場の馬鹿力が発揮できるようになり、必死になると普段持ち上げることのできない大きな家具を運んだりできるようになる。超人ハルクという映画のキャラクターをご存知の方も多いと思う。ハルクも普段はおとなしい知的な男性であるが、怒りとともにおそらくアドレナリンによって筋肉の固まりのようなハルクに変身する。アドレナリンの分泌は、とてつもないパワーを発揮できるようにする一方でエネルギーの消費も激しい。内分泌腫瘍の一種で褐色細胞腫というアドレナリンを分泌する副腎髄質の腫瘍があるが、過剰に分泌され続けた結果、動悸、発汗、頭痛、高血圧、糖尿病、心不全などを合併し、時に致命的になってしまう。

 野生の小動物は追いかけられて捕まると突然死してしまうことがある。捕捉性心筋疾患とよばれ、過度のアドレナリン分泌によると考えられている。人においてもアドレナリン過剰はたこつぼ型心筋症を引き起こす。褐色細胞腫がたこつぼ型心筋症をきっかけに発見されることも稀ではない。阪神淡路大震災では、外傷もなくショック死した人も少なくなかった。私の知り合いの先生で残念ながらショック死された方もいる。災害時のストレスは心筋梗塞による死亡率を上昇させる。つまり非常時の限界を超える適応の代償は決して小さくないのだ。アドレナリンは非常時のホルモンなので必要がなければ分泌されない方がよい。

 人間の社会は無用な争いをさけるべく様々な規範、タブーなどをつくってきた。どこにも沸点の低い人がいるが、そのような人ではアドレナリンが容易に分泌されている。怒りや恐怖は主に原始的な脳である大脳辺縁系や扁桃体から生じるが、人は前頭葉を発達させることにより理性と感情の制御を身につけてきた。またあるがままを受容する姿勢や昇華する高度な心理的手法も発展させてきた。怒りや恐怖といった感情は動物的反応を惹起する。この反応によって生じる行動は短期的には適応的であるが、中長期的には様々な生物学的、社会的損失を生じる場合が多く、感情による動物的反応をうまく制御できる人すなわち倫理的規範を他人より守り理性的行動ができる人が、社会では尊敬されることになる。

 アドレナリンは血中半減期が約2分であり、急激に作用する一方不要になればその効果は急激に消退する。怒りでかっとなった時にはアドレナリンが分泌され、かっとなって反応すると、相手も反応し相互作用でお互いに感情的になり、時として破滅的な行動となり得る。アンガーマネージメントでは怒りのピークは6秒で終わるため、相手の態度や言葉でかっとなった時にはカウントバック(頭の中で数を数えること)が有効とされているが、まさにアドレナリンが消退するのを待つことが有効である。脳の扁桃体が怒りを感知して行動を起こすまでに1秒足らずだが、その反射的な反応をいかに理性でやり過ごすかが重要になる。

 

愛情のホルモン、オキシトシンとバソプレシン
私たちは愛する人と手を繋いだりハグしたり、大好きなペットをなでていると幸福感に満たされる。そのような時にはオキシトシンというホルモンが分泌されている。オキシトシンは、下垂体後葉から分泌され、出産時の子宮収縮や授乳時の乳汁分泌に重要なホルモンであるが、最近心における大切な役割が注目されている。オキシトシンの最も大切な役割のひとつは母性本能である。オキシトシンは乳汁分泌に重要であるが、そもそも母親が赤ちゃんにお乳を上げたいと思わなければ授乳は成立しない。オキシトシンはそのような時に乳腺を刺激するだけではなく、母親が赤ちゃんを愛しいと感じ抱きしめておっぱいをあげたいと感じさせる気持ちすなわち母性本能を引き起こす。そして母親を幸福感で満たすのだ。

 ヒトが社会で生きるときに、そして社会を維持するためには、他人に対する信頼や慈愛の心というものは非常に重要な意味を持つ。オキシトシンはそのような信頼や慈愛を引き起こすことも明らかになってきた。オキシトシンを点鼻された人は相手をより信頼するようになる。また自閉症の子供にオキシトシンを投与する多動や不安など少なくとも一部の症状が改善する。興味深いことに長い握手はオキシトシンを分泌するが、まさに信頼を形成する儀式と考えられる。また私たちがペット撫でたり見つめたりすると私たちだけではなくペットにおいてもオキシトシン血中濃度が上昇する。

 オキシトシンが上昇するとストレスによって刺激されるCRHというストレスホルモンの作用を減弱し、ストレスに耐えられるようになる。ストレスにさらされたときに私たちが癒しを求めるのはオキシトシンを求めているのである。このようにオキシトシンは愛情、信頼、幸福のホルモンであり、いかに人の心をオキシトシンで満たすかは幸福を考える上で大切なことである。さらに興味深いことに、最近の研究からオキシトシンは様々な疾患による臓器障害を防いだり、創傷治癒を促す可能性が示唆されている。例えば患者さんの手を握ったり、体をさすったりすることはオキシトシンを介してストレスを軽減し治癒を促しているのかもしれない。

 下垂体機能低下症、中枢性尿崩症の患者さんはQOLが低下しており、ホルモン補充療法によってかなり改善するが常に十分とは言えない。最近オキシトシン欠乏もQOLや幸福感の低下に関連しているかもしれないということが示唆されている。私自身が診察した患者さんでも例えば、副腎皮質ホルモン、甲状腺ホルモン、性腺ホルモンさらに成長ホルモン、デスモプレシンを補充しても、十分なQOLの改善を認めない場合がある。いずれこのような患者さんに対するオキシトシン投与の臨床治験ができればと考えている。

 下垂体後葉からはオキシトシンとともにバソプレシンというホルモンが分泌される。バソプレシンは抗利尿ホルモンと呼ばれ、腎臓で水分の再吸収を調節している。間脳下垂体腫瘍などでバソプレシン分泌が障害されると大量の尿が出る尿崩症という病気になってしまう。

 実はバソプレシンも心の調節に重要である。バソプレシンは主に男性におけるパートナーシップの形成に関与すると考えられている。アメリカハタネズミとプレーリーハタネズミは外見や特徴にほとんど差がないが、オス、メスの関係が異なる。プレーリーハタネズミはメスとつがいを形成し巣を作る。一方アメリカハタネズミは大変浮気性で、特定のメスとのつがいを形成しない。この2種類のネズミの違いの原因は、腹側淡蒼球のバソプレシン受容体1A型の発現量の違いであることがわかった。発現の少ないアメリカハタネズミに分子生物学的手法を用いて無理にこの受容体を発現するとちゃんとつがいを形成したのだ。つまりバソプレシンがきちんと働くことが、オスが特定のメスとの絆を維持することに重要であった。このことはヒトでも関連しているらしい。バソプレシン受容体1A型の発現量を調節している遺伝子多型と男性におけるパートナーとの絆の強さ、離婚のしにくさと関連していることが報告された。このように愛情、母性本能、信頼、浮気性などもホルモンの作用が密接に関わっている。ホルモンはまさに体とともに心を調節しているのだ。

 Part3に続きます。

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